カラスの日記でしょ

カラスが人間界のことについて書きます。カラスの勝手でしょ。

ソフトウェアの未来

大したことは書かん。というか書けん。そしてカラスの記事は読みにくく。長い。それでも読んでくれたらうれしい。

 

人間が本当に望むもの

私、カラスは人間が発明した

紙というものが、情報を蓄積し、伝搬し、世界を平たくしたのを知っている。

しかし紙を利用する機会が増えることで、そのできることで生まれた副作用が日々の作業を凡庸でつまらないものにさせ、そしてそのことにしこたま時間を使うようになった。またその輸送コストや印刷コストも増大し、そのための資源も大量に必要になった。

時代は新しくなり、コンピュータの発明。コンピュータと別のコンピュータがつながり合うインターネットという発明。この二つの発明が時代を大きく変えた。

またまた人類はその自らに知りえた知識を蓄積し、伝搬し、紙よりはるかに効率的に世界を平たくした。

人間のもたらす革新は常に、世界をよりスムーズにいきやすくさせるものであるかの様だった。実際、世界の人口は跳ね上がり、昔のように戦さで明け暮れる大国も減ってきた。世界は、人間は戦よりもビジネスそれも、情報を使ったビジネスに夢中だ。

 

しかし一歩立ち止まって考えてほしい。本当に大事なのはビジネスか。

 

あなたたち人間が一番望んでいるのは、ビジネスによる評価か?成功か?金か?名誉か?

違うだろう。それは目的を達成する手段の一部でしかない。世界の多くの人間がそれらを指標として、それらがあれば自分たちが望んでいることを実現できるかもしれない。そう思うのだ。だからそのために頑張るし義務だとして国もそれを支えようとするのだろう。それは人間が生んだ国というシステムが国全体の中で最善とされた最善とした選択肢を選び、戦略的に進めていった結果なのだ。

 

しかしなのになんでこんなに苦しいのだろう?そう考えるのが普通の感覚だろう。

 

カラスという立場から一つ言わせてもらうなら、それは勘違いから起きているものだ。

世界はこんなに平たくなろうとしてるのに。人々が思うことはそれほど他人には伝わらない。人間は脳みそがやたらと働く。そのおかげで良いこともすれば、悪いこともしてきた。人間たちはそれらを性善説だとか性悪説だとかわかりやすい言葉に変えて、戒めを解こうとしてきた。しかしこれらの言葉が逆効果である場面も多々あり、それらが本来伝えたい役割を果たすのは難しいのが現実だ。

それらの因果は人間の脳がより互いから情報を引き出すために特化したため、余計な情報も保管し、ありもしない部分を勝手に埋め合わせ、合理的よりもより効率的であろうとしたがためのものだ。

昔はそれが有効に機能した。人間は四六時中人間と相対するのが国で一般的に経済活動を行う人間のあり様だったからだ。しかしきれいな家族像や近所づきあい像をここで述べるつもりはない。

現在、とくにこの日本では、その人間が育んできた機能は無駄になっている。無用の長物だ。

なぜならば、多くの人間が孤独に苛まれているからだ。数十年前の日本の姿からすると考えられない光景だ。家族という言葉で人を縛っていったあの時代とは180度ほど違う方向を向いてしまっているのだ。

これらの原因については、産業革命以降のテクノロジーの目覚ましい発展と、それを目の当たりに繰り広げられる新しい産業構造から由来するものとして考えるべきか否かは私が語るところではないだろうが、あえて言うならばそれは妄想の中にあった新たな理想が実現しないまま、夢のままで終わっている姿であろう。私はそう思っている。

 

しかし、時代はさらに変わった。

スマートフォンという新しい情報デバイスの発明と、情報通信網の発達、大量情報の蓄積と分析。

素直に私は色眼鏡をつけずにこれらを広めるために貢献をしてきた人間たちに敬意をささげたい。

 

すなわちこれらが実現するのは新しきソフトウェアの姿と、それに伴う人の本来への姿へ近づくための道だ。

それはテクノロジーの一般化とコミュニティの復活、否、新たなコミュニティの創造だろうか。しかしこれらはまだ産声を上げたばかりだ。夢のままでは終わらせない。そういう願いが込められたテクノロジーとも言うべきだろうか。

人間が人間として、より自分たちの生きやすい本来の目的であった世界を実現するために情報を共有化し、自分を知り、相手を知り。意志を伝え、他人とつながる。それらが距離を無視しして行うようになり、まだまだ未熟ではあるが、国を超えてつながろうとしあっている。

昔は情報は金を集めた。しかし今は情報が金を集める機会は極めて稀になった。

その代りとして、ドラッカーの唱えたイノベーションとマーケティングによって起こる、多くの人間の勘違いが新しく出てくるモノの価値を決めるようになった。

しかし、もうそのイノベーションという基準も、マーケティングという働きかけも、人々の感情を消費し、疲弊させ、新しい感動を生まなくなってきている。

 

カラスはLINEというツールイノベーションではないと考えている。むしろ前からあったものを使いやすくしただけのものだ。マーケティングもそれ自体は知らせるという意味で役に立ったといえるが、それ以外の扇動は余計で、前時代の残滓だ。

LINEはちょうど時代の求めに答えるようにスマホで体現され浸透していっただけなのだ。

 

カラスが言いたいことは。人々の脳をひとつのリソースの集合ととらえるならば、それらを無駄に消費させずに、円滑に人々がリソースの価値を引き出す。

それがこの先のソフトウェアに求められているものだ。

しかしまだまだこれは簡単ではないだろう。特に機能と表現は別と考えているソフトウェア企業にとってそれらで成功することはまずあり得ない。なぜなら人々の脳をリソースとしてとらえることができず、機械的に機能を並べることが仕事だと思っているからだ。それ以外のことは余計と考えている企業がまだまだ多いのだ。

そして、それらの企業でこの先のソフトウェアと称したをものを成すことは容易ではない。すぐれ経営者でなければ難しいだろう。

 

最後に、ソフトウェア技術者はまだまだあきらめてはいけない。コミュニケーションをとるツールが多様化され、そういった経営者を探し出せる機会が増えている。経営者もすぐれたソフトウェア技術者を求めるならそういったコミュニケーションツールを使う場面が増えるだろう。チャンスは前よりも格段に増えているはずだ。

ソフトウェア技術者は先のソフトウェアを目指す開発にかかわれる機会が増えるだろう。だから経営者が求める技術者像を描いて自分を磨き続けていってほしい。

未来のソフトウェアを作る技術者たらんことを。